日本史
江戸時代の社会経済
今日は江戸時代の社会経済として、人々の階層構造や農民の負担について学んだ。
江戸時代の人は、「士農工商」と大きく4つに分けられた。
士(武士) 約10%を占め、特権が与えられた。
特権としては、苗字(名乗れる)、帯刀(刀を持てる)、切捨御免(町人・百姓の無礼に対して、殺しても処罰されない)などがあった。農(農民) 約80%を占めた。
工(職人)
商(商人)
ここで注目すべきは、農民より、職人、特に商人の位が低かったこと。
「稼ぐことは卑しいことだ」と言われていた。
農民構成
全体の約8割を占めた農民の構成はどうなっていたのか?
本百姓という自作農民(土地を所有している農民)の下に、
水呑百姓(土地を持たない小作人)、
さらにその下に名子・被官といった隷属民がいた。
農民の負担
農民は税を村でまとめて納入していた(村請)。
何を負担していたか、と言うと、
- 本途物成:米
- 小物成:雑税(その他
- 高掛物:村全体の石高にかかる付加税
- 夫役(労役):国役と言う国ごとの労役や、助郷役といって人馬の提供があった
村の中では以下のように組織されていた。
- 五人組(連帯責任)
- もやい(共同労働)
- 村八分(交際断絶の罰)
世界史
引き続き世界史の復習をする。
古代イラン
今日学んだのは古代イランについて。
なぜイランを見る必要があるの?
下記の図の赤丸のあたりがイラン高原である。
この場所が大事であるのは、東西をつなぐ中継地点であるからだ。
前3世紀には、パルティアという国があった。
これは「アルサケス」が建国。
彼には「安息」という中国名があった。
つまり、中国にまで彼の名前は知られていた。
東西交易の中継地点であることのメリットは多くの商人が集まり、繁栄することである。
一方、そのデメリットは、周りの大国に狙われること。
パルティアはササン朝ペルシアによって、滅亡した。
その後、イラン高原を支配したササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教化することで、仲間意識を芽生えさせた。
しかし、642年には、ニハーヴァンドの戦いで当時めちゃくちゃ強かったイスラーム勢力に滅ぼされる。